越谷達之助記念会

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「初恋」の縁 ~越谷達之助

初恋といっても、私が作曲した石川啄木の歌曲集「啄木によせて歌える」全十五曲中の一曲目の標題である。 最近、NHKの名曲アルバムや、高校の音楽教科書にもあらわれているので、お気付きの向きもあろうかと思われる。
これは五十年も前の私の青春期の作品で、初演されたのは戦前、故三浦環女史が帰朝第一声の記念リサイタル開催の際、有楽座の舞台からであった。 当時のプログラムの内容はほとんどオペラのアリアで埋められていたが、中に一つだけ「初恋」という日本歌曲名が小さく載っていた。 それ以来、三浦先生との交遊が始まり、戦争ぼっ発直前であったから食料も乏しい中で、酒の粕(かす)を火鉢の炭火でこんがりと焼き、 その上に白砂糖を乗せ、おしろいやけした紫色のてのひらで私に差し伸べながら、激動する世界の中の日本について深夜までお話を伺ったものである。
この初演のリサイタルを聞いていた生き証人が今も健在で活躍しておられる。 日本製粉社長の八尋敏行氏で、当時は学生の慶応ボーイであったが、以来、交遊が続いている。 その間、彼は私の机上に山と積まれた作曲原稿を皆知っていて、来訪ごとに「芸術創作活動は、発表という段階を踏まない限りその完成はあり得ない」と 口癖のように私をしかりつけ、怠け者の私も彼によってようやく腰をあげ始めたのである。思えば私にとって忘れ難い励ましの恩人である。
戦時中、コロムビアがこの初恋のレコード化を試みたが「戦時中に初恋とか胸の痛みとは何事だっ!」と大政翼賛会から一喝を食らったので、 藤浦洸氏が「秋まひる」という自作の短歌に言葉をかえて発売された。が、間もなく空襲が始まって、それは一般に広くゆき渡らなかった。 それが終戦直後、文部省検定の高校音楽教科書に「初恋」として採用された時は、その演奏者である当時芸大教授の浅野千鶴子氏と私は、 あぜんとして、微苦笑しながらも、戦争の生態というものを骨の髄まで知らされたものである。
戦後まもなく、この曲と通してある外人から奥田良三氏を紹介され、彼と全国を学校単位で演奏して回った。今思えば、演奏会のドサ回りの風体であったろう。 しかし奥田先生には今も、演奏会に、レコードに、テレビ、ラジオ放送にこの歌を採りあげて積極的に演奏していただいており、全く感謝感激である。 啄木評論家の川並秀雄氏にもいろいろご教示を賜った。

【日本経済新聞 交遊抄に掲載】

初恋のしらべ ~奥田良三

作曲家の越谷達之助、ピアノ伴奏の高木幸三、そしてテノールのぼくの三人は、青年期によく一緒に仕事をした三羽烏(がらす)だった。 その越谷君が先日亡くなった。
越谷君をぼくに紹介してくださったのば成城中学の英語の先生だったベルさんことエリック・エスベルである。 マダム・バタフライにあこがれて日本に来たほどの音楽好きのベルさんは、「いい曲を書く人だから一度歌ってみたら」と越谷君にひき合わせてくれたのだった。
越谷君の曲はほんとうに素晴らしかった。親しみやすく、無理のない、しかもロマンチックで温かい曲だった。 特に啄木の詩に曲をつけた「初恋」はシューベルトの「水車小屋の娘」にまさるとも劣らない名曲である。 若い熱情がほとばしるように表れているところなど、水車小屋と相通じている。
越谷君は、動作にも表情にも言葉つきにも女性的なところがある人だった。そして最も女性的なのはその神経のせん細さである。 俳優出身のためか詩の朗読がうまく、ぼくの歌と彼の朗読というコンビで舞台をずいぶんやったが、ぼくの気がつかないところによく神経が届いた。 朗読の時にすわるいすだとかテーブルかけ、ランプなど、ほんの小さなものにも趣味の良さを求めるのである。そういうことには徹底的にうるさかった。
純粋なものを好み。きたないもの、ずるいこと、ごまかしなどをひどく嫌がった。 山田耕筰先生がだれ彼おかまいなく艶(えん)笑談を話すのも、「イヤーネエ」「いやらしいネエ」と眉(まゆ)をひそめるほどだった。
数年前、越谷君が青山学院を定年になった時、私のやっている東京声専音楽学校にぜひ来てくれるよう懇願したのだが、彼は「これからは作曲に専念するから」と断ってきた。 定年になるとガクッとからだが衰えてしまったが、病気が悪くなって入院した後も、お医者さんの目を盗み、消灯後にふとんをかぶって作曲にうち込んでいたという。 もしあの時、ぼくの学校に来てくれていたら、若い生徒たちに囲まれて、まだ元気に活躍していたのではないか、と悔やまれてならない。

【日本経済新聞 昭和57年(1982年)4月29日 交遊抄に掲載】

「日本のシューベルト」賛歌~珠玉の歌曲遺した越谷達之助先生~

八尋敏行(やひろ としゆき=日本製粉社長)

石川啄木の和歌に題材

作曲家の越谷達之助先生が亡くなられてから、早いもので2ヶ月過ぎた。 先生は石川啄木の和歌に題材をとった「啄木によせて歌える」など、数々の歌曲を残し、根強いファンを持っている。 私もその一人だが、半面、先生は一般に「啄木の越谷」としてしか知られていないのも事実。いささか残念なことではある。 26日には先生を慕う者の手で追悼リサイタルが開かれる。これを機にもっと多くの人に先生の仕事の跡を知ってもらいたいと願って、筆をとった次第である。

私が大学を終え日本製粉に入社した昭和15年の秋、当時音楽同好の友であった現在の私の妻とふたりで、東京・日比谷公会堂で催された三浦環のリサイタルを聴きに行ったときのことである。 アンコールにこたえてステージに出てきた環女史が突然聴衆に語りかけて、越谷達之助という無名の作曲家を、ドイツ・リートの大宋シューベルトと比照しつつ紹介し、彼のピアノ伴奏で石川啄木の詩による「初恋」を歌った。 そのときの環女史の紹介の言葉は、戦後間もなく出版された「初恋」を含む越谷達之助歌曲集「啄木によせて歌える」(全15曲)の裏扉に、ほとんどそのまま記録されている。 また表扉には「この歌を愛唱したまいし日の今は亡き三浦環先生のおもかげにおくる」と添書されている。この初演の歌曲を聴いたときの激しい感動は、私も妻も、40年以上たった今でもなおありありと思い出せる。 当時私は、ドイツ・リート、ことにシューベルトやシューマンの歌曲にかなりのレコード・コレクションを通じて夢中になっていたこともあって、「日本には唱歌はあるが、リートは無い」などと生意気にも慨嘆していたのだった。 それだけにこの一歌曲にほんとうの日本にリートを発見した思いで、その晩の驚きと喜びは尋常一様ではなかったのである。

文通から始まった交遊

越谷先生と私の交遊は、その後間もなく文通から始まった。 先生には、個人的な不幸不遇の時代、苦悩にみちた失意の時代もあったが、それぞれの時に、手紙で、あるいは直接お目にかかって励ますことも少なくなかった。 昭和49年まで、青山学院大に音楽教師として奉職のかたわら、楽興のおもむくまま作曲を続けられたが、しかしそれは歌曲に限定され、しかも寡作であった。 そのうえ先生には、作品を世に出すことについて常になにかしらためらいのようなものがあった。 それは、彼の作品の根幹ともなっている純粋に日本的なロマンチシズム、ヒューマニズムが、今の世に素直に受け入れられるだろうか、という危惧(きぐ)に根ざしていたように思われる。

昭和50年代になってようやく先生は、「これからの私のすべてをかけて仕事をしてみます」と私に書き送ってきたように、作曲と出版と発表に力を入れ始めた。 晩年のある文章で私のことに触れ、「彼は私の机上に山と積まれた作曲原稿を皆知っていて、来訪ごとに『芸術創作活動は発表という段階を踏まない限りその完成はあり得ない』と口癖のように私をしかりつけ、 怠け者の私も彼によってやっと腰をあげ始めたのである」と、このころの思い出を書いている。たしかに私が先生にとって、いくらかの刺激にはなったであろう。 しかし先生はまた、詩集「老残の詩(うた)」の後ろ扉にこのようにも書いている。「ゆくてには、出口の扉がまぢかに迫り、まもなく開かれようとしているではないか。 せめて扉のかげに、この遺書などそっとおいて、私は、私の時をいそがねばならぬ」―――。 一方ではこうした切迫した気持ちが、先生を急がせたのかも知れないとも今になっては思われる。

詩と音楽が微妙に融合

私が先生のリートに常に深い感動を覚えるのは、リートの神髄であるメロディーが情緒をこめて美しく歌われていることにもよるが、それぞれのフレーズにおいて詩歌と音楽とが微妙に融合し、 ときには反発しながらも、凝縮した叙情を見事に表現していることにある。しかも感傷に堕することなく、常に香り豊かな品格を保っている。 そしてこれほど詩歌のこころをつかんで作曲されたということは、先生が作曲家であると同時に、詩人でもあったからであろう。 「野葡萄」において、格調の高い詩がいかに清冽(せいれつ)な品格をもって歌い上げられているか、「桐の花」の耽美(たんび)的な詩歌が、いかに陰鬱(いんうつ)な情念をこめて語られているか。 私はこれらの作品をもっと多くの人々に知ってもらいたいと思うのである。

私が先生に「リートは言葉をはっきりと歌うことが必要である」、また「リートは美しい声で歌われねばならない」などと、聴く者の側に立っての意見を言うと、先生はひざをのり出し顔を紅潮させて、大きくうなずくのが常であった。 先生の歌曲は、とくに彼と親しかった三浦環、奥田良三、長門美保氏など名歌手によってリサイタル、レコードあるいはテレビにも登場し歌われてきた。 しかし「啄木」以後の先生の作品は、ご自身が参画し司会者でもあったコンセル・アミで発表されたいくつかの小曲は別としてなかなか発表されず、ほとんどは昭和52年以降になってやっと自家出版され、 その前後に演奏会がもたれただけである。 即ち、「戦盲歌」(佐々木信綱編、失明軍人歌集より。母ほか全7曲、作曲19年、出版51年10月)、「詩集・老残の詩(うた)」(出版52年7月)、「野葡萄」(大伴道子作詞、ピアノと独唱と朗読による三重奏。 野葡萄の紅ほか全8曲。作曲46年、出版52年8月)、「日本の哀愁」(夢の子守歌ほか全16曲、作曲5年ころより、出版52年9月)、「桐の花」(北原白秋作歌、哀愁ほか全13曲、作曲40年ころより、出版55年5月)――――である。

先生の死の翌日渋民に

先生の死(ことし3月6日)の翌日、私は啄木の生地、岩手県・渋民を訪ねた。それは全く偶然にも、かねて出張中の休日を利用して行くことにしていたことであった。 春とは名のみの吹雪舞う寒い一日であった。北上川を見下ろす啄木の句碑の前に立って私は、音楽を通しての奇しき因縁を思った。 3月28日には、先生ゆかりの青山学院講堂で先生の音楽葬が行われ、私は葬儀委員長をつとめた。 啄木全集を新しくレコーディングしたばかりの入江進(テノール)小保内恭子(ピアノ)による追悼リサイタルも近く予定されている。 越谷達之助の音楽の世界は、その作品の数や、また歌曲のみに限られていることからすれば、あまりにも小さいといえるかもしれない。しかし作品それぞれは珠玉のように美しく朽ちることはないであろう。 私が先生に繰り返し言った言葉がある。「あなたの作品はいつの世までも多くの人に愛され、ロマンの香りをまきちらしながら歌いつがれて行くでしょう。先生はそれをこの上ない幸せと思いませんか」。

昭和57年5月22日  日本経済新聞掲載(記念会による注:文中の年数は昭和です。)

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